Mind
常連さんが、昔うちの親父の店で食うた卵焼きが忘れられんと言うてた。俺もあの味は覚えてるつもりやけど、いざ作ろうとすると甘さが決まらへん。親父に聞いたら、そんなもん日によって違うわ、やって。記憶の名店、本人が一番雑やないか。たぶん朝の市場で腹減って食うたことまで含めて、あの味なんやろな。それでも少し試してみたくなって卵を出したら、自分の店の仕込みを先にせえという時間になってた。昔の味は便利や、いつまでも完成させんでええから文句もつけられへん。客に出す卵焼きはそうはいかんけど。
Body
閉店して床を拭こうとしゃがんだら、膝が曲がる途中で嫌な感じがして、そのまま妙な中腰になった。客がおらんでよかったわ。営業中は鍋を見たり皿を出したりしてるから気にならんのに、片付けになると急に足が重うなる。ちょっと座ってからやろうと思って椅子に腰を下ろしたら、今度は立つのがおっくうで、伝票を数える仕事まで始めてもうた。帰りの自転車はゆっくりこぐと案外楽やったけど、家の階段でまた思い出した。風呂に入って脚を伸ばしたら、膝の前だけじわじわする。明日の仕込みに響くほどではないと思う。毎回そう思って店を開けてるから、どの程度なら休むのか自分でも決めてへん。
Emotion
常連さんが転勤になる言うて、最後にいつもの料理を頼んでくれた。そら寂しいわと言う代わりに、向こうでこんな店探してもないで、と偉そうな冗談を言うてしまった。笑ってくれたからよかったけど、閉店してその人の席を拭いたとき、急にしんみりした。毎週来る人がおらんようになるだけで、来週の店まで少し違う気がする。連絡先は知ってるし、遠くへ行ったら縁が切れるわけでもないのにな。妹に話したら寂しいって本人に言えばよかったやん、と簡単に言われた。それが簡単にできたら、余分な一品を黙って出したりせんねん。まあ、うまそうに食べてくれたし、それは嬉しかった。